~その生い立ちと使命~
昭和60年(1985年)8月31日、岡山県の自衛官の家庭で次男として生を受けます。
父方の家系は長船町(現・瀬戸内市)で農家を営んでおり、母方は日生町(現・備前市)の一般的な会社員の家庭でした。
父の仕事柄、幼少期は全国を転々とします。小学校は三か所に通いました。初めての転校こそつらい記憶として残っていますが、根が明るい性格のため、すぐに新しい友人もでき、楽しい小学校生活を送ります。今思い返せば、社交的な性格になった要因は転校生活にあったのだと思います。
中学校に進む頃に埼玉県入間市に定住します。入学と同時に両親から進学塾に通うように勧められ、嫌々ながらも通い始めました。(実際に体験入塾では授業が終わった後に通いたくないと泣いたほどでした。)小学校の成績は決していいほうではなかったため、勉強する習慣を身につけさせたいということだったのだと思います。しかし、ここでの生活が人生を大きく変えることになるとは思いもよりませんでした。
ある日、塾の先生との面談で私は叱られてしまいます。志望先の学校について相談していた時でした。どうやら先生はより偏差値の高い学校に進んでほしいらしく、私の志望校では納得していないようでした。
当時の私の考えは単純明快。中学校と同じように共学で、大学受験をしないで済む付属校に行きたいというものでした。思春期の男の子が考えることはその程度です。結局お叱りを受けたことで男子校を受験することで決着します。その結果、ギリギリ(補欠合格からの繰り上げ)で慶應義塾の門をたたくこととなります。
高校では軟式野球部に所属し、日夜泥だらけになりながら青春を謳歌します。校風がおおらかでのびやかに個性を育んでくれるものだったため、文化祭などのイベントは学生が中心となり行われ、当時は廃止されていた体育祭の復活を我々の学年で果たすなど、自己決定の重要さを学びました。いわゆる独立自尊の精神です。
この高校時代の教えが現在も私に大きく影響しています。人格形成の重要な時期に、自分の意志でものごとを決定する多くの機会を得られたことが、常に挑戦し前進し続けるマインドを育てました。何かを成すためにはどのような責任が発生し、周囲にはどんな影響が出るのか、自分の人生を自分で決定し、目標を定めて生きていくことを身をもって学んだと思っています。
私が掲げている、「子供の未来を守りたい」という言葉は、大人は常に未来を見据えた行動を取るべきだという信念に基づいています。よく、「未来の子供たちのために」「地球のこれからのために」という言葉を耳にしますが、今の大人が行動を起こすだけでは手遅れだと私は考えています。本当に未来のことを考えるのであれば、これから大人になる、今子供の世代から先を見据えた教育を実施すべきだと思います。私は高校時代の教育が人格形成に大きな影響を与えたと先に述べました。教育を受けるということは、ほとんど十代の頃だけに限られた貴重な権利です。この期間にどのような教育を受けたかによって人生は大きく変わります。我々大人は本当に未来のことを考えるならば、子供の教育を受ける権利を再考し、机に向かうことだけでは得られないものを与えていかねばなりません。自分で考え決定し、自分の責任で行動できる。子供たちがそういう大人になれるように、環境を整えていくのが私の使命だと考えています。